高校生のための読書ガイド

という名の、おれの読書感想にっき。小並感/ネタバレ有で

貫成人『カント―わたしはなにを望みうるのか:批判哲学』

二冊は読むべきだな。やはり読みやすいと感じた。「入門・哲学者シリーズ」は内容も多すぎず平易に解説されてて、素人にはありがたいなあー。あとこのWordで描いたみたいな図もいい。

カントは有名な『~批判』の三書で、それぞれ真・善・美を説いた。わたしたちが認識し理解をするとはどういうことか、道徳とは何か、美とは何か、というようなことだ。このうち後半の二つには割かれている頁も少ないし、ロジックも今ひとつ明らかではないので、あまり考えないことにする。

カントがいた時代というのが重要で、当時は(ヨーロッパ)大陸側では合理論的独断論ライプニッツら)、つまり人間の理性がすべてであり神の存在も理性による空虚な詭弁で示せてしまうのだという主張が、イギリスでは経験論的懐疑論(ヒュームら)、つまり経験がすべてでありものの本質などというのはまぼろしにすぎないという主張が、それぞれに先鋭化した趨勢としてあった。これらの調停をはかったのがカントだ。まず合理論について。カントは理性でなにごとも断じようとする姿勢を独断のまどろみと呼んでそこからの脱却を目指した。まず理性について。宇宙は有限か無限かという議論が二律背反に陥るのは、簡単にいえば宇宙がこういう尺度に収まるものではないから。形而上的な領域は理性に扱いうるものではなく、信仰の治める分野でたる。経験論は経験だけを認める立場で、別々の経験どうしの背後におなじひとつのものを観るのはわたしたちの心の習慣にすぎない(語るに落ちてる気がするが詳しくないのでわからない)としたが、カントは経験をつなげるのは経験を生みだす本質的な何かがその影にあるのではなく、感性とともにたはらき、感性による入力を解釈する知性(悟性)がそれ(おなじひとつのもの的理)をつかさどるのだとした。この解釈のしかたは範疇(カテゴリー)と呼ばれ、経験に先立つ、アプリオリなものである。アプリオリって最初に言ったのもカントなのかな。また、感性が時間と空間の形式をもつことを明らかにし、概念と対象のインターフェースを図式と呼んだ(ちょっとここはよくわかんない)。これらがともにはたらいて経験は可能になるのである。ちなみに、このようにしてものごとを経験せざるをえない以上、経験される現象を生み出しているはずの何かは想像することしかできず、カントはこれを物自体と呼んだ。対してわれわれが知覚できる物自体の影を現象という。これらがそれぞれ叡智界、現象界をなす。

このようにカントは合理論と経験論の調停者であったが、知覚対象が人間の主観によって可能である点でデカルト的であったし、カテゴリーが経験に先立つ点でプラトン的でもあり、ヨーロッパ哲学の歴史にわたっての調停者でもあったのだった。スゴイ。

カント―わたしはなにを望みうるのか:批判哲学 (入門・哲学者シリーズ 3)

カント―わたしはなにを望みうるのか:批判哲学 (入門・哲学者シリーズ 3)