高校生のための読書ガイド

という名の、おれの読書感想にっき。小並感/ネタバレ有で

渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』

自立生活を志向する筋ジストロフィー患者と、その介助をおこなうたくさんのボランティアたちの話。ルポルタージュだね。最近はノンフィクションと言うらしい。Amazonのアカウントを取ってほぼはじめにウィッシュリストに入れた本で、ようやく掘り返してきたものだ。

おれの人生で障害者と呼ばれるような人に会った経験は何人かの聾唖者くらいしかない。彼らの場合は、他の大勢の人には普通にできることができない、というたぐいのもので、言語が違うこともあり、一種独自の文化を築いているという風に当時見ていた。本質的には自立していて、いくつかのハンディキャップがあるというところだろう。けれどこの本の中心人物であるシカノという人は筋力が衰えているのだから自分では何もできない。24時間誰かがそばにいなければ、生きることができない。おれはこの本を障害者とそうでない人の本だと思って手に取ったが、介助されねば生きえない人と介助する人の本だと考えるのが正しそうだ。

鹿野は人生を病院で送りたくなどない、普通に自宅で暮らしたい、といって病院を飛び出し、自力でボランティアをかき集め、痰の吸引など命に関わるようなことも彼らに委ねながら生活し、その姿はじっさい他の障害者たちにも影響を少なからず与えているらしいのだけれど、この本はそんな鹿野の主義主張を取りあげてなぞるだけのことはせず、それよりも彼の生活を支える(というよりは生活そのものである)ボランティアたちに注目する。なぜボランティアをするのか、鹿野のようにワガママで、決してやりやすくはない性格の人間の介助をなぜ続けられるのか(やめた人間も大勢いる)……。じっさいこれがおれには不思議で、一人一人違った言葉で語るその答え、考えを読んでいくのが面白い。

結局のところ、鹿野のように人間生活そのもの、食事も排泄も、なにもかもを他人にゆだねなければならないとき、その介助が持続可能かつ健全(被介助者が自分らしく生きる……というと美化しすぎなので、普通に人間として生きる)であるには、お互いの自己を融合させなければいけないのではないか、と思った。そこに「思いやり」とか「優しさ」とか、ありがちな障害者の神聖化なんかを介在させない、エゴとエゴ直接のやり取りが必要なんだと思う。完全に融合してしまってはもちろんいけないけれど、かといって赤の他人同士でもないような関係、というのはもちろん難しいが、しかしそう思うと鹿野がエゴむき出しの激しい性格であったというのは、一種の歩み寄りであったのではないかとも思える。

……と思えたところまではいいけれど、自分がこういう状況になったとき同じような関係を築くことができるのか、すでにあまたいる要介助者にも同じことができるのだろうか、と思うとあまり明るい展望は持てないのも現実だ。単行本で買ったけど、文庫もKindle版もあるのね。高尚な気持ちではなく、のぞき見をするような下衆な気持ちで手に取ってみてもいいと思いますよ(おい)。おもしろかった。

こんな夜更けにバナナかよ

こんな夜更けにバナナかよ

関係なけど /archive で見たときに綺麗になるように、書影は最後に持ってくるようにした。